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月別アーカイブ: 4月 2010

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気分をかえてみました

大したことではありませんが、テンプレートをかえてみました。
たけぱぱだからといって、竹林をモチーフにして、両側に色々のアイテムを並べると、やはり見にくい。定期的に背景を変えてみるのも良いのかなと思っています。

あまり年齢のことは関係ないと思うのですが、昔はアルチュール・ランボーやアーベル、ガロアといった若き天才や、大宰治や芥川龍之介といった作家、ショパンやシューベルトにモーツアルトといった風で、みんな40歳前に人生を終わっている人たち(20歳そこそこもいますが)と自分の年齢を比較して、自分の大器晩成ぶりに落胆していたものです。
それが、同世代のスポーツ選手がほとんどいなくなり、ついに織田信長の本能寺の年齢になってしまいました。(あちらは数えかな?)

人生は生まれた日から、人生の最期に向けての旅をスタートしているわけで、余命という意味では、みな平等に削られているわけですが、流石にそろそろ残されている時間を意識しないといけないようになったかなと思います。(この歳で、やっとそう思うのが逆にすごいと思うのですよ、正直。)

若い時は、できること、経験は限られていますが、無限の可能性、ポテンシャルを売りにできました。 でも今は、積み上げた引き出しからどれだけ使えるものがでてくるか、という状況なんですね。(そういうものに、とらわれていても意味がないのですが、ここはひとつとらわれてみましょう)

沢山のことを達成するのは若くないとやはり難しいようです。
できることは限られてきます。一日に1つか2つです。 それで、結果を出し続けるためには、知恵と諦めが必要ですね。 できることを限っていくのです。 できないことを諦めるのです。 やればできるものは、やらないからできないのです。

結構、人生って単純なのかもしれませんね。

やったからできたことが積みあがって、結構な山になっているではありませんか。
効率よく、一生懸命高く山を作った人もいますが、そうでない人も、生きてきた歴史分の何かがあると思います。
死んで、自分の一生を振り返る時がやってくるとしたら、死出の旅路は楽しみなのかも知れません・・・ って、変な感想を持ったのも、久しぶりに米朝さんの地獄八景を聴いたからかも知れません。(もう生では聴けないでしょうね)

持っているCDの登録作業がかなり進展してきていて、もうすぐ900枚程度で完了する予定です。 我ながら、いろんなCDを持っているなと思います。 総てを聴きなおすというのも、結構きついものがありそうです。 それでも100GB程度なんですね・・・。

昔の皇帝が権力の総てを傾けて手にしたものよりも多くの情報・英知・芸術が手元にあります。 そう考えると、とても幸せな時代に生きていると思います。
もっと言うと、今の若者に比べても、色々なものが作られてくる過程を同時代的に共有しているので、物事をブラックボックスで見なくて済む幸せな時代に生まれたものだと思います。(なにしろ、私が勉強を始めた頃はメモリーの単位はKBでしたから・・・)
破壊される前の自然の中で生まれ育っていますし(裏山であけびをとったりしてましたよ)、学問の分野でも新しい発見、フレームワークの展開をいくつも見てこれたし、塩野七生さんのローマ人の歴史 も完了を見届けられたし。幸せな人生をおくっていると思います。

日本のジャーナリズムは、何故か不幸だ不幸だとお題目を唱えていますが、ちょっとだけ視点を変えるだけで、日本は幸せの国だと思う次第です。
鳩山さんが色々とたたかれていますが、大衆運動の一つも発生していないのは、少々問題があっても、日本という社会はびくともしないと、みんなが考えているからではないでしょうか。 無能な(本当はどうか知りませんよ)リーダを擁くことをみんなが許容できる豊かな社会に生きていることを本当に幸せに感じます。

右肩上がり成長と拡大の時代が終わって、停滞だけど豊かな中世がやってくるのだと思います。人それぞれに幸せの尺度が異なり、違った幸せをみんなが享受する時代がやってくると良いなと思います。まあ、最低限、生活ができないといけないのは勿論ですが。

ハイパーデフレの時代

世の中はデフレですが、IT業界ではハイパーデフレが進行中です。
扱うデータの単位が指数関数的に増え続けているのです。


ムーアの法則という有名なCPUの性能(集積度)が18ヶ月で倍になるという法則がありますが、それに準じて扱うデータ量が増大を続けています。
その結果、今までは単純な量の増大だったものが、段々質の変化に転化しつつあります。
言い換えるなら一人で処理できるデータの量が飛躍的に拡大していて、それが業務内容にまで波及してきていて、業態再編を引き起こしつつあります。


インターネットの発達と整備によって、大量の情報がほとんど無料で容易に入手できるようになりました。
また、APPも単純化・高速化が進んだおかげで、かつてであれば大企業の戦略部門のほんの一握りの人間しか手にできないような情報が、簡単に手にすることができるようになりました。(今は情報がありすぎて、その洪水の中から必要なものを取り出せるかという部分での巧拙が大きいですが・・・)


その結果、昔は能力が足らないために多くの人々の力を集約するために、ピラミッド型で機能的な組織を作りました。そこでは、いかにチームを動かすかというプロジェクトマネージメントやリーダーシップが求められてきました。

しかし、今はトップの周辺数人が前線を直接動かせる時代がやってきています。 軍隊で言えば伝令はもちろん、士官レベルの佐官が必要なくなってきています。(師団長と小隊レベルを動かす下士官で十分。会社で言えば部長・課長レベルがいらなくなっている)
急にこのミドル層をなくしてしまうと、”経験ある”経営陣が生まれてこないので、これからは将来のエリートを育成するための投資対象に中間層がなる時代になっているんですね。(そこまで極端ではないですが・・・)


昔、製造業で人件費が安い海外に生産拠点が移るという心配が20世紀の終わりごろに盛んに話題になりましたが、結局製造ロボットなどの導入によって、人より機械を使う方が安く、より高度な生産のためにまた日本に生産拠点が戻ってくるといった逆転現象がおきました。
それと同様なことが今、IT業界でも起きようとしているように見えます。


オフショアで人月単価が1/2、1/3のリソースを活用されては戦えないという時代(そのため、人件費削減=人減らしの圧力がいよいよ強くなっています)ですが、実際にはそのひとつ先で、そもそも開発をしない(→パッケージを買ってきて業務をこれに合わせる)、運用もしない(→ クラウドがあたるとしたら、ここがポイント)、それでいて必要なデータやレポートは経営層が自分で作る(もしくは、それができる人だけが経営層に生き残る)という時代がすぐ目の前にやってきているのではと思います。


書籍も返本率が50%というもう末期症状ですし、著者も1万部程度では印税が100万円程度で、そこそこあたっていても、それで生活はできません。その一方で電子書籍では著者の取り分が70%といったAmazonのモデルが出てきています。(印刷・流通のコストが必要ないですからね)
テレビなどメディア業界でもそもそも広告費が入らないので、タレントを使えずADのスター化が進んでいます。その一方で、FM戸塚 のようなミニFM局のような地域密着型の分散化・専門化が進んでいます。
その結果、ものすごくコストをかけられない、そして中間を必要としないビジネスモデルしか生き残れない時代がやってきているといえましょう。


マスの時代が終わりを告げたということなのでしょうか。
ローマ帝国が滅んで古代が終わりを告げ、地域分散の中世がやってきているのかも知れません。(ちなみに、暗黒の中世というのは古い史観ですよ)


繰り返しになりますが、世の中はデフレです。 そのため、仕事がどんどん減っています。 生産能力が増えて、かつてのギリシアのように、奴隷に働いてもらって楽をできる時代がやってくると思ったら、自分はポリス市民ではなかった・・・という現実に気がついて、みんながあわてています。(残念なことに奴隷でもないことがこの問題の難しいところですが・・・)


ちょっとだけ仕事をして、ほんのちょっとの収入で、その代わり文化やコミュニティ豊かで充実した社会になるというのが、あるべき姿なのでしょうか。穏やかで平和なスローライフの社会・・・時代は仏教かな。


なにはともあれ、この大混乱時代を生き抜いていくためには、今まで以上にアンテナを高く、感度を高めて、よりクリアな目で世の中を見ていかないといけませんね。 混乱を楽しむ乱世の心構えが肝要かと。

立ってPCを操作する

どこかの記事で、立ってPCを操作するように環境構築をしていたのがあった。 それは、部屋の一角にモニターを2台並べて、デスクトップを床において、キーボード用の板だけが取り付けられている、おしゃれな空間だった。


そこまで立派ではないが、私もNetPCを自宅で使うときには、モニターと外付けキーボードを活用するように少しグレードアップしました。


ということで、なるべくブログやツイッターはこちらで入力するようにしましょう。


なぜか、私の場合は、CDのラックの上がモニターとキーボードが鎮座する場所になっていますが・・・・


 


CDのiTunesへの登録作業と本のAccessDBへの登録作業を継続しているので、通常のPC利用が宙に浮いているという背景もあります。


 

色々と入れ替わる時期ですね(六車と恩田)

4月になって、世の中は卒業と新入の切り替え時期。
例年のごとく、組織は一部分を交換して再生・継続している。
全体としてみれば健全な動きなんだろうね。

ただ、その新陳代謝の対象、特に捨てられる側になった者には一抹の寂しさがある。
大竹真のゴールデンラジオで一番のパーソナリティだと思っていた六車が卒業ということで、あの声と天真爛漫なやりとりがきけなくなるかと思うと、なんかさびしい。
これを機に、ゴールデンラジオのPodCastも聴くの止めようかな・・・なんて。

まあ、実際にはテレビに進出ということで、栄転なんだろうけど、一番の魅力は声なのだから、ラジオに戻っておいで。適当でいいからさ。

また、最近やっと聴き始めたFM戸塚が、この時期金のかかりそうなパーソナリティを一斉に切ってしまいました。 その一環で、戸塚西口シネマ座の恩田さんも、気がついたら番組が無くなっていました。
うかつだったな~。そういえば、嫁さんを番組に呼んでいたものな~。それって、普通じゃないよね。思い出作りだったか・・・
最初は、戸塚の再開発で映画館ができる予告版の番組かと思って聴き始めたのですが、土日の夕方にBGM的に流しておくには心地よい番組だったのに・・・
映画館が招致されなかった責任を取ったわけでは無いよね・・・
たまに流れる番組のCMが最近変わったなと思ったら、それが原因だったのね。

なんだか、自分がお気に入りだった番組やパーソナリティが次々と切られる状況に、自分の好みがマイノリティーになっているような恐れを感じますね。
今までは、世の中でブレークする前から興味を持って追いかけてきていた自覚があったのだが(例えば、カーリングとか・・・)。
これでは、本当にニッチなマイノリティおやじではないか・・・

まあ、それもいいかな。この歳だし。

トツカーナ よくわからんがな

先月少し働きすぎたので今日は休みをとって、丁度オープンするトツカーナに出かけてきた。

サクラスの時もそうだったが、やはり無用に混んでいる。
特に、東急プラザの方は通路に人があふれて、移動も大変な状態だった。
ただ、平日ということもあったのか、天候が悪かったこともあるのか、行き帰りの地下鉄もすいていたし、まあ普通に混んでいるという感じかな。

色々と面白い店も沢山あって、特に無印良品が入ったのが良い。
あと、輸入雑貨の店も使える。 (早速、菓子やビーフジャーキー、オリーブなど購入)
ハンズ・ビーはちょっと残念。オタマトーンは売っていたけれど、ソニープラザと同じ感じかな。東戸塚のLoftの方が断然上。
飲食店は種類が色々あって面白そう。ただ、場所がバラバラ。
少し落ち着けば、大船程度には使えるのかな・・・というのが感想。

ただどうだろうか、再開発ということで、似たようなお店が一杯入っているし、極めつけは肉のサイトウを突きあたって右に行けば東急ストア、左に行けばスーパー石黒・・・って、どういうことかいな。

結局、先ほどの輸入雑貨と戸塚の昔を描いた水彩画集を記念に買って、今日は退散。
半年もしたら、元旭町商店街の店は半分ぐらいが消えて、東急プラザの一人勝ちに終わるんじゃないでしょうか。
まあ、これから少し落ち着けば、路地裏にあった怪しげな雰囲気が戻ってくるのかな。

バスのロータリーがまだ資材が置かれている状況で”工事中”、あと、旧ウエスト側の通路も4/3に閉鎖するという掲示があったりして、間に合わなかったけどとにかくオープン 感が満載でしたね。

東急プラザ側はFloorGuideもしっかり、わかりにくいのができていたが、トツカーナ・モール(というらしいです、柏尾川よりの部分)は変な外人さんモデルのビックリ顔のチラシ(この顔もどこかで見たことあるような素材を流用しているような・・・)があるだけでした。

結局、無理なプランで妥協に妥協を重ねたというのが、如実に表れているようで、どこを目指しているのかよくわからない感じですね。 あれだけ多様性に富んでいた商店街を押しつぶして作ったにしては、わけのわからない、立体シャッター通りを作ったってことにはならないでほしいと思う。

まあ、良いこととしては、再開発の間停滞していた街の機能が復活して”普通の”駅ビル商店街ができたということぐらいかな。(逆に言えば失われた何年だ?)
東急ストアは21時までやっているみたいだから、帰りに買い物をここで済ますのもありかなと思った。(主婦ではないが)
そうなるとサクラスの三和スーパーとかの地位も危ないね~。

もうちょっと落ち着いたら、色々とお店を発掘してみようかなと思う。
それまで、持つのか・・・という店もありそうだが。

CDの緩衝用スポンジに注意

この悲劇を語るには、昔話から始めないと。

CDの規格が定まってSONYのD50が出て、ポータブルで良質な音楽が楽しめるようになったのは院生として大学に残って、バイトと奨学金で少しお金に余裕がでた頃だった。
その頃、よく遊びに行っていた助手の先生には変な友人が多くて、スタビライザーを使ってレコードの反りを抑えてより良い音を再現する、といったことを”普通に”していた人がいた。
なんでも、レコードは保管の時、どうしても反りが出るので、ポンプでレコード盤を吸着する道具があり、その重量もあって、より安定した回転によって高い精度の音がでるということだった。(実際に、のちに自分でも購入したが、機能したかというと・・・)
なんでそのような道具が必要になるかというと、デッカーがだしていたゲオルグ・ショルティー指揮による「ニーベルングの指輪」全曲というレコード界の金字塔の冒頭、無音の状態から長大なるクレッシェンドによって、最後は弦・金管入り混じった大音響に到達する導入部はダイナミズムや音の安定性を含めてオーディオの性能が試される部分である、という話だった。
実際に、この「ラインの黄金」の冒頭部分は、地底の奥底から自分が引き上げられる様な感じがして、今でも大好きなパートだ。

それで、自分でCDプレーヤーを買ったあとに、購入した一番大きなものが、丁度発売されていたCD版の「指輪」全曲だった。

私にとって、その黒い立方体のパッケージは、CD収集の原点とも言える貴重なものだった。
常にCDラックの一番上に君臨してきたのは、ワーグナーとショルティの肖像だったのだ。
ところがある日、久しぶりに取り出してCDプレーヤーにかけようとしたら音が出ない、跳ぶのだった。

なんだこれ?

どうやら、CDが劣化しているようだ・・・
慌てて、パッケージを確かめてみると、緩衝材として挟まれていたスポンジが劣化してぼろぼろになっており、さらに悪いことに、劣化したスポンジがCDの表面を侵食して、保護被膜を破壊していたらしい。(と、後で分かった)。
実際には、ボロボロの砂がこびりついてレーベル側がざらざらになっていた。
これを落とす時に、アルミ面が壊れてデータが消えていたのだ。

20年近くがたって、当時は複数枚セットのCDには普通に挟まれていたスポンジが最ももろく危険な物質だったのだとは、気付きもしなかった。

その結果、私の思い出のCDセットは再生不能に陥ってしまい、結局別のセットを購入することになった。そのため、今でも落ち込んだ時に、ラインの黄金を聞き、ワルキューレで気分を高揚させることができるのだが・・・
もう、思い出のCDから音は出てこないのだ。
(砂化したスポンジを落としたことで、透明になって向こうが見えるようになった哀しいCDだけが残された)

そして、今日、再び、アイーダの冒頭の1枚が同じ症状にやられた。
見つけ次第、スポンジは捨てるようにしているが・・・抜けがあった。
この悲劇を繰り返さないように、総てのCDをチェックしないと・・・